あしすと設計一級建築士事務所代表。
住宅設計に携わって40年以上、現場監督経験15年、
建築施工中に第3者としてする建物検査を1,000件以上行ってきました。
また、プライベートでは、4人の子育てと母の介護を経験し、設計者である前に“生活者”として、住まいの課題に何度も向き合ってきました。
■ 幼いころ、私は「病気の子」でした
山口市に生まれた私は、外科医の父と専業主婦の母のもと、長女として育ちました。
誕生後まもなく肺結核に感染し、小児喘息や熱性けいれん、強いアレルギー体質に悩まされる日々。
保健室が私の教室のようになっていた小学校時代を今でも覚えています。
家族からも「人前に出すな」と言われることもあった――そんな過去を持つ私は、
「誰かに必要とされる人になりたい」
そんな想いを、胸の奥にずっと持ち続けていました。
■ 建築との出会い――「困っている人を助けたい」
進路に悩んでいた高校時代。
数学が好きで理系に進もうとしていた私に、伯母が引き合わせてくれたのは、
障がいのある方の住環境を研究している建築士さんでした。
その出会いが、「建築でも人の命や暮らしを守れる」という希望をくれました。
■ 「才能がない」と言われた大学で
進学後、最初の言葉は、担任教授からの「君には才能がない」――。
その言葉に火がつきました。
「負けたくない!」
そんな想いで設計に打ち込み、卒業間際には同じ教授から「君は設計がうまいらしいね」と言っていただけるまでに成長。
大学では、障がいのある方の社会復帰をテーマに研究。
“人に寄り添う建築”の原点は、ここにありました。
■ 就職難、結婚、出産――「働けない時期」が教えてくれたこと
当時は、女性に門戸を開いている建築会社はほとんどなく、
やっとの思いで就職しても、妊娠・出産で退職を余儀なくされる――
そんな繰り返しの中で、私はいくつもの壁にぶつかりました。
しかし、家庭にいる間も、間取りのチラシを夢中で模写し、
設計の情熱は冷めることがありませんでした。
夫や4人の子どもたち、そして“アレルギーの子を持つ母”としての経験が、
建築士としての私に深みを与えてくれました。
■ 「建築がしたい」気持ちを貫いて
ハウスメーカーのパート社員として再出発。
子育てをしながら、全国でも珍しい「パート建築社員」として働き、
やがて正社員、建築主任、建築係長へと昇進。
それでも、「設計がしたい」という想いを譲らず、
1級建築士を取得して独立。自分の事務所を立ち上げました。
■ 欠陥住宅、そして震災支援へ
独立後は、新築設計に加え、欠陥住宅や住宅相談にも多く関わるように。
「もっと早く相談してくれていれば…」というケースを目の当たりにし、
“予防できる建築”の必要性を痛感しました。
そして東日本大震災。
仙台へ赴き、建築士としてできる支援に携わる中で、
「建築は、人の命を守る仕事だ」
という思いをあらためて強くしました。
その直後、夫を事故で亡くし、しばらく仕事も手に付きませんでしたが、
「またお願いします」と声をかけてくださるお客様、
「引きこもっている場合じゃないよ」と手を差し伸べてくれた友人たちの存在が、
私をもう一度立ち上がらせてくれました。
■ そして今――「泣かない家」をつくるために
コロナ、戦争、物価高…
新築の依頼は減り、耐震補強やリフォームの仕事が中心になりました。
そうした現場で、
「どうしてこんなリフォームを…」
「もっと早く相談してくれていたら…」
と思うことが増えました。
けれどそれは、建築士という存在が、
「相談しづらい」「敷居が高い」と思われているからなのかもしれません。
だからこそ、私は誰よりも話しやすく、寄り添う建築士でありたい。
建物も、そこに住む人も――
誰一人、泣かないで済むように。
そんな家づくりを、ずっと目指しています。
【結びのメッセージ】
建築とは、「人生を包む器」をつくること。
私は、住まう人の人生に耳を傾け、
“その人のための空間”を共につくっていきたいと思っています。
どうか、困った時は――
あなたの人生の中に、そっと入りこめる建築士でありたいと願っています。
あしすと設計一級建築士事務所代表。
住宅設計に携わって40年以上、現場監督経験15年、
建築施工中に第3者としてする建物検査を1,000件以上行ってきました。
また、プライベートでは、4人の子育てと母の介護を経験し、設計者である前に“生活者”として、住まいの課題に何度も向き合ってきました。
■ 幼いころ、私は「病気の子」でした
山口市に生まれた私は、外科医の父と専業主婦の母のもと、長女として育ちました。
誕生後まもなく肺結核に感染し、小児喘息や熱性けいれん、強いアレルギー体質に悩まされる日々。
保健室が私の教室のようになっていた小学校時代を今でも覚えています。
家族からも「人前に出すな」と言われることもあった――そんな過去を持つ私は、
「誰かに必要とされる人になりたい」
そんな想いを、胸の奥にずっと持ち続けていました。
■ 建築との出会い――「困っている人を助けたい」
進路に悩んでいた高校時代。
数学が好きで理系に進もうとしていた私に、伯母が引き合わせてくれたのは、
障がいのある方の住環境を研究している建築士さんでした。
その出会いが、「建築でも人の命や暮らしを守れる」という希望をくれました。
■ 「才能がない」と言われた大学で
進学後、最初の言葉は、担任教授からの「君には才能がない」――。
その言葉に火がつきました。
「負けたくない!」
そんな想いで設計に打ち込み、卒業間際には同じ教授から「君は設計がうまいらしいね」と言っていただけるまでに成長。
大学では、障がいのある方の社会復帰をテーマに研究。
“人に寄り添う建築”の原点は、ここにありました。
■ 就職難、結婚、出産――「働けない時期」が教えてくれたこと
当時は、女性に門戸を開いている建築会社はほとんどなく、
やっとの思いで就職しても、妊娠・出産で退職を余儀なくされる――
そんな繰り返しの中で、私はいくつもの壁にぶつかりました。
しかし、家庭にいる間も、間取りのチラシを夢中で模写し、
設計の情熱は冷めることがありませんでした。
夫や4人の子どもたち、そして“アレルギーの子を持つ母”としての経験が、
建築士としての私に深みを与えてくれました。
■ 「建築がしたい」気持ちを貫いて
ハウスメーカーのパート社員として再出発。
子育てをしながら、全国でも珍しい「パート建築社員」として働き、
やがて正社員、建築主任、建築係長へと昇進。
それでも、「設計がしたい」という想いを譲らず、
1級建築士を取得して独立。自分の事務所を立ち上げました。
■ 欠陥住宅、そして震災支援へ
独立後は、新築設計に加え、欠陥住宅や住宅相談にも多く関わるように。
「もっと早く相談してくれていれば…」というケースを目の当たりにし、
“予防できる建築”の必要性を痛感しました。
そして東日本大震災。
仙台へ赴き、建築士としてできる支援に携わる中で、
「建築は、人の命を守る仕事だ」
という思いをあらためて強くしました。
その直後、夫を事故で亡くし、しばらく仕事も手に付きませんでしたが、
「またお願いします」と声をかけてくださるお客様、
「引きこもっている場合じゃないよ」と手を差し伸べてくれた友人たちの存在が、
私をもう一度立ち上がらせてくれました。
■ そして今――「泣かない家」をつくるために
コロナ、戦争、物価高…
新築の依頼は減り、耐震補強やリフォームの仕事が中心になりました。
そうした現場で、
「どうしてこんなリフォームを…」
「もっと早く相談してくれていたら…」
と思うことが増えました。
けれどそれは、建築士という存在が、
「相談しづらい」「敷居が高い」と思われているからなのかもしれません。
だからこそ、私は誰よりも話しやすく、寄り添う建築士でありたい。
建物も、そこに住む人も――
誰一人、泣かないで済むように。
そんな家づくりを、ずっと目指しています。
【結びのメッセージ】
建築とは、「人生を包む器」をつくること。
私は、住まう人の人生に耳を傾け、
“その人のための空間”を共につくっていきたいと思っています。
どうか、困った時は――
あなたの人生の中に、そっと入りこめる建築士でありたいと願っています。