企業情報・自己紹介

こんにちは、新潟市を中心に音楽活動をしています、ギタリストの伊藤学です。 得意な分野はジャズのアドリブソロ、コンピング、弾き語り、作曲、アレンジです。 いわゆる超絶技巧派では無いです。 こんなギターを弾いています♪ https://youtube.com/playlist?list=PLcnqNZnYiZyqBdrGF9NuDMlUYWCc-lBwt 【こんな方に】 長年ロックギターを弾いてきたが以前からジャズをやってみたかった。 全くの初心者だけど、中学生の息子がギターを始めたので自分も一緒に。 カラオケで歌うのが大好き!ギターで弾き語りがしたい! 楽しそう!友達増えそう!バンドやりたい! 来年定年退職を迎えます。何か趣味を持ちたいと思っていました。 などなど… 【レッスンの進め方】 レッスンのウォーミングアップとして 15分ほどかけての 7thコードの4度進行のベースラインとコードバッキング を導入しています。 E7-A7-D7-G7-C7-F7-B♭7-E♭7-A♭7-D♭7-F♯7-B7 メトロノームに合わせて 1小節パターンの場合1小節×12 ベースラインとコードバッキングそれぞれ練習します。 やがてペンタトニックでのアドリブ ミクソリディアンでのアドリブ 2小節4小節パターン、ゆくゆくは2拍パターンと進めていきます。 これは毎回僕のレッスン時にもやりますが出来たら毎日ご自宅でもやって頂きたいと考えています。もちろん楽しんで、無理なく練習して下さい。疲れちゃった日は休んでもいいです! そして、ウォーミングアップの後はご自分がやりたい曲を課題にして取り組んでいきます。 ただし、やりたい曲は1ヶ月〜半年で次々変えて行きましょう。 つまり、完璧に弾きこなすまではやらずに、 決めた日までにどのくらい弾けるかやってみる と言うチャレンジを次々にこなして行きます。それを繰り返す事で、世の中の様々な曲に対応出来る実力を身に付けてもらいます。 ギターの上達と言っても色々な奏法、色々な曲、色々なアプローチがあります。 僕が出来る事を可能な限り、全部お伝えします。中には地味な練習もありますがとっても必要な事だったりします。 【やがて…】 やがてはジャズやブルースのセッションに参加したり、オープンマイクに出演したり実際にお客さんの前で演奏しましょう。そう遠く無い将来です。見ている人が大勢いる中で友達を見つけてバンドを組んだり、ライバルのギタリストに出会ったり、彼氏や彼女が出来たり…と音楽のある人生を楽しんでもらいたいと思っています。 僕がそうだった様にね!

経歴・資格

昭和46年生まれの僕が高校2年生だった年の1月7日に、昭和が平成になったと記憶しています。 平成元年。もしかすると僕達は3年生になっていたかも知れないけれど、友達の鶴巻君が学校の帰り道で将来は何になるつもりか聞いてきたので、本当はエディ・ヴァン・ヘイレンみたいなロックギタリストになりたかったけど、ちょっと恥ずかしかったので「ジャズギタリストにでもなろうかな」とだけ言った事を覚えています。 僕はどうもそう言うところがある様です。ロックギタリストになりたいならロックギタリストになるって言えばいいのに言えない。ジャズギタリストになるのも悪くないよなあなんて思いながら、地元の新潟スバル自動車に整備士として就職したりするんです。平成2年の入社1年目は車の勉強漬けでしたが2年目の平成3年に地元のドリーム音楽院でジャズギターを習い始めるんです。その時の石山経麻朗先生が僕のたった一人の師匠です。多くの事を教わりました。今思うと、その中でもっとも僕に影響を与えてくれた教えは「ジャズがうまくなりたいなら作曲しなさい」と言うものでした。 平成5年頃から数年は仕事終わりにZ-1と言う新潟駅に近いライブハウスに入り浸る様になります。地下に続く階段の踊り場でジャズギターの練習をしていました。ブルーボッサのテーマと自分で用意したいわゆる書きソロを延々繰り返していました。オーナーの鈴木さんから頑張れよと声をかけてもらうのが嬉しかった事を覚えています。そして誰かが聴いているかも知れない場所でギターを弾くのがとても好きになりました。 平成6年に脱腸の手術をします。2週間ほどの人生ではじめての入院でした。ヘッドフォンでジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズなどを聴きまくりました。当時組んでいたバンドのサックスの石川さんからもらった何冊かの文庫本を読む様になり、それがきっかけとなり読書好きになりました。だから好きな作家は今も池波正太郎。 平成7年に新潟スバル自動車を退職して実家のパン屋の手伝いを始めました。本当はジャズギタリストになりたかったのに、パン屋になるんです。僕はどうもそう言うところがある様です。 平成8年に当時長く付き合っていた彼女と別れた事もあり、旅に出ます。ジャズギタリストになりたくて、悶々としながら暮らしていた僕が選んだ旅先はニューヨークでもパリでもなく、メキシコでした。僕はどうもそう言うところがある様です。3週間ほどの楽しい一人旅は、ますます自分が何がしたいのかわからなくなる旅でした。その後、家には帰らず姥ヶ山にあったサックスの田村さん宅に居候するようになります。なぜか田村さんはほとんど帰って来ません。網川原のガソリンスタンドでアルバイトをしたり、古町のカラオケスナックでバーテンの様な事をしたりこの頃からふらふらした生活をし始めました。休みが合うときは田村さんとよく駅南の噴水広場でストリートで演奏しました。アンプが貧弱でギターは全然いい音ではなかったはずです。 平成9年に上京します。僕は25才になっていました。今思えばこの時点でジャズはほとんど出来ていませんでした。無謀な上京でしたが、ようやく自分のやりたいことをやる一歩を踏み出せた瞬間でした。まずは高円寺に安いアパートを見つけて、あちこち歩き回って西新宿のガソリンスタンドでアルバイトをすることになり、阿佐ヶ谷のマンハッタンと言う老舗ジャズバーでセッションに参加できると聞いて行き、参加して、回りのとんでもなく上手い本物のジャズミュージシャンを神様のように遠くにみつつ自分のダメさ加減を思い知る日々が続きました。 自宅アパートに有線放送導入。もともとテレビは無いしこれでジャズ漬けの日々だ!と月5千円ほどの投資をするが落語のチャンネルにはまります。古今亭志ん生、三遊亭円生、桂三木助、桂文楽、三笑亭可楽など昭和の大看板の名演を聴きまくり、落語漬けの日々でした。 平成10年。楽器屋で見つけた小さいけど結構パワーがあり、充電式のアンプを手に入れた僕はストリートで弾く気持ち良さを覚えます。移動はメットインのとこにアンプがスッポリ収まる50CCのスズキレッツでした。新宿コマ劇場前のロータリーで。渋谷駅ハチ公前の広場で。赤坂のホテルの前の外堀通りで。吉祥寺の井の頭公園で。セッション会場では本物のジャズミュージシャンがいたので自分のダメさ加減を思い知るばかりでしたが、ストリートでやる分には僕はとってもギターが上手いお兄さんになれました。お巡りさんとケンカしたり、ホームレスと仲良くなったり、たまにはかわいい女の子と知り合ったり、楽しい日々が続きました。 自分のダメさ加減を思い知る日々と、楽しい日々をバランスよく繰り返しているうちにある事に気が付きます。僕はジャズギタリストとしてちょっとづつ、上手くなっているのかも知れない。いくつかのバンドにも入り、売れていないにしろ音楽活動は充実していました。よし、と思い始めた頃、どういうわけか僕は新潟に帰る決心をします。結婚しようと思ったんです。

お仕事で心がけていること

で、平成15年、結婚して、新潟に帰って実家のパン屋を継ぐための修行をする事になります。僕はどうもそう言うところがある様です。 その頃、新潟市の老舗ジャズ喫茶スワンではある厄介な問題を抱えていました。著作権料未払い分一括請求問題です。生演奏をしておきながら払うべき著作権使用料を払っていなかったとのことで、裁判沙汰になり全国的にも大きく報じられました。問題がどう収まったのか分かりませんが僕はその騒動を近くで見ていて、自分で曲を書けばいいじゃないかと考えていました。僕はジャズギターの練習と平行して曲作りにも力を入れる様になりました。思い出されるのは師匠、石山経麻朗先生の教えです。 平成16年に長女が生まれました。僕は父親になったと言う自覚もそこそこにパン屋をやりながらジャズギターの練習に没頭します。車で40分ほどかかりますが新潟市にもセッション会場はありました。毎月第2土曜日の夜はジャズフラッシュで1000円払ってステージに立ちます。東京のセッションと比べたらレベルは低いですが僕にはちょうど良い「場数」となりました。その頃、店で余ったパンやシュークリームをセッション会場で売らせてもらっていた関係で、『イトパン』の名前で呼ばれる様になりました。 平成18年に次女が生まれました。子供が寝ているので練習は終わった後のパン工場か、家を出て玄関先でやっていました。その頃どういう練習をしていたかと言うと、4度進行のコードバッキングとアドリブソロの繰り返しでした。この練習がやがて実を結びます。 平成20年新潟ジャズストリートに伊藤パン屋&theMuffinsとしてはじめてエントリー。実質的に僕のソロ演奏でしたがTp古沢さんやTsヨシコちゃんなど居合わせた数人の友人ミュージシャンが参加してくれたことを覚えています。この時から僕のリーダーバンドやユニットはMuffinsと言う名前になりました。 平成22年の夏のジャズストリートの最中に三女は生まれて来ました。今ごろみんな頑張っているだろうなあ。僕も出たいなあと、かみさんの陣痛の痛みなどこれっぽっちも理解せず、クロマチックハーモニカに手を出しはじめていました。 平成24年。色々な事情からパン屋を止める決意をします。色々な事情のもっとも大きな事情は、僕がジャズギタリストになりたかった、と言う事です。40才を越えてアルバイト生活に突入しました。僕はどうもそう言うところがある様です。 アルバイトの都合で出張に出かける機会があれば毎回セッション会場を調べ上げここぞとばかりに参加します。新発田市Bird、長岡市音食、上越市Swing、群馬県ケイノート、栃木県足利屋根裏、埼玉県Swan、東京都Intro、 Manhattan、Bells、Virtuoso… 平成28年。新潟市の西堀のジャズ喫茶A7で毎月ソロライブを開催するようになりました。毎回お客さんは1人か2人。でも猫の清正さんに聴いてもらうととっても上手くなるような気がしています。 平成29年。東区フラワーポップと言うライブカフェでイトパン式と言うジャズセミナーを毎月開催するようになりました。僕が以前やっていた4度進行の繰り返しをみんなでやってみようと言う企画です。 平成30年。俺のイタリアン新潟三越前店でプロとして月に1、2回ですが綺麗な女性ヴォーカルの方とデュオでステージに立っています。 同年夏、新日本海フェリーの北海道航路内でのパフォーマンスをソロギターで担当。そしてとても残念な事に、イベントの締めくくりの朝に北海道厚真町を震源とする地震が発生。イベントが中止になってしまいました。 この年の暮れに、師匠の石山経麻朗さんが闘病の末に他界されました。色々な事を教えてもらいました。 平成の30年間を費やしてどうにかこうにか、僕はジャズギタリストになる夢を叶えつつあります。こうして振り返って見ると実にじれったい30年となりましたが、少しずつ、少しずつ、なりたい自分に近づいています。 今の夢は2つあります。自分がプロのジャズギタリストとして北海道に行く事。 そして、僕の過ごした30年が君の力になってくれる事です。